人ごみ


検問所、第一の回転ドアの前。

検問所を抜け、エルサレムに向かう際の車窓。

深夜の西エルサレム

久々に、長蛇の列に並んだ。
ラマッラ(西岸最大の都市)から、エルサレムに向かう際に抜ける検問所で、最近までは、外国人はバスに乗ったままイスラエル軍の兵士からチェックを受け、パレスチナ人は、検問所の中に入って並び、荷物をX線に通して、身分証のチェックを受ける仕組みだったが、一時的なものか、システムが変わったのかは解らないが全員がバスから降ろされた。

どうやら、検問所が一時的に封鎖されていたらしく、検問所の中は長蛇の列。余りに人が多いので、隠れて一枚様子を撮影した。
検問は、金属製の回転ドア、第二の回転ドア、(そこを抜けたところで身分証と荷物検査)、第三の回転ドア、という流れになっているが、第一の回転ドアの前、最近、一人しか通れないような金属の柵の通路が設置された。
機械の故障だったのか、たいした事態ではなかったのか、案外検問はすぐに稼働し始めたが、一度に3人くらいしか通さない。
回転ドアは、リモートコントロールで、回転を止められる。
第二のドアの前がまた長蛇の列で、二つあるドアの一つが上手く動かないためか、イスラエルの女性担当者がかなきり声を上げる。パレスチナ人は、無理矢理3人以上一度に入ろうとしてまたつまり、それをみてまたイスラエル人担当者が叫ぶ。
「(早く行きたいのは)解っているって、言ってるでしょ。(回転ドアは)開いているわよ!」

そんなやり取りを聞きながら、
「頭、おかしいね」
と、隣の叔父さんに言うと、
「アラブもね」
まあ、確かに笑っていないと気持ちが悪くなる光景。
体がごつごつ隣の人と当たり、子供が泣いたり、気分を悪くする人がいたり。
今回は、時間が短かったため余り酷いことにはなっていなかったが。
すぐに、比較的通過しやすいが遠回りになる道に人々を運んで商売をしようと、乗り合いタクシーの呼び込みの声が聞こえるようになった。

以前、殆ど開くことがなかったガザを南北に分けていた検問所のことで、最悪の時期よりましになった、とある日本人に語ったら、「何をみているの!」と、声を荒らげられたことがある。
こちらより後になってガザに関わり、かつNGOで働いていたような人物なので、気持ちは良く分かるし、こうしたことに慣れてしまってはいけない、とは思う。
ただ、客観的に見たり、辛抱しようとすれば、笑い飛ばしている方が楽。
どちらが良いものかは今も解らない。
今回は、30分ほどで抜けられた。上々か。
検問所を離れると、車用の検問箇所の前に並ぶ
数百メートルの車の列が目に入る。
再度バスに乗り込み、それを横目に見ながら、何もなかったようにエルサレムに向かってバスは走る。

以上は、昨日の夕方のこと。
その後日本人の知人と食事をし、真夜中近くにホテルに向かった。
金曜の日暮れから土曜の日暮れのユダヤ人の休日が終わり、西エルサレムイスラエル側ではユダヤ人の若者が酔って奇声を上げていた。繁華街の入り口には、警察が簡易検問を設けていたが、若者と一緒にはしゃいでいた。
写真を撮っていると、二人の若者が寄ってきて、一人は日本に3回行ったことがあるとか。
写真を撮ってとねだられ、メールで送る約束をする。
こちらは、騒ぎたくなって集まった人たち。
人ごみの中で流されて、良くも悪くも変わって行く自分に何かの感慨を抱いたりするのだろうこの人たちは、我々のように。


「人ごみ。」一部を見れば全く同じそれらを、全く同じ場所からだけ見て同じ言葉を当てはめて良いのか。
イスラエルパレスチナは、対等な<紛争>当事者ではない。


(4/5 エルサレム

4/10、11の会とも、まあ旬も過ぎたのか余裕があるようです。
こちらとしては、人数には余りこだわりはないのですが、主催者の立場もありますし・・・毎度の事ですが、新しい情報もあります。
お時間があれば、ご参加下さい。
(詳細は、数日前のブログをご参照下さい。)

イランと、イスラエルと、北朝鮮

イスラエルを殲滅する」
世界中のどの国も、こうしたことを言うべきではないし、言われ続け、それが兵力を併せ持っている場合には、対抗策を講じるのは当然、とユダヤ人の知人が協調する。
エルサレムで、毎度訪ねているイスラエル人(ユダヤ人)の自宅で夕食をご馳走になっている時に、イランについての話になった。こちらは、いくら何でもイラン一国でイスラエルを殲滅するのは無理だし、無意味な攻撃は仕掛けてこないと思うけれど、と答えると、それでも「この状況では、しょうがない。」と言う。彼は、かなりの左派である。
イスラエルの方が、遥かに進んだ兵器、核弾頭の所有も暗黙の了解事項とされ、軍事予算もイランのそれを大幅に上回る、とされる)

イスラエルのことを、客観的な視点から否定をしたり、議論を持ちかけたりはするが、「危険」と感じたり、イランを嫌う気持ちまで曲げるような話は振りにくい。それで日本の例を出した。
北朝鮮の打ち上げようとしているものが、ミサイルであるならば、仮に今回それによる被害を日本が防いだり、ミサイルが日本列島を越えて海に落ちても、状況としては、ガザ攻撃を仕掛ける前のイスラエルより遥かに危険だよ、と。
今の日本の右傾化した空気に同調するつもりもないし、北朝鮮をすぐさま攻撃しろ、などというつもりはないけれど、日本を取り巻く環境では、こんなことは日常茶飯事。どう思う、と聞き返したが、答えはなかった。
また昨日は、西岸のイスラエル人入植地の中でも、宗教色が強く、例えば03年には、エルサレムパレスチナ人の女学校に爆弾を仕掛けようとした人物の出身地でもあるように、過激なエリアで、斧によるユダヤ人殺害事件が起きた。彼は、このおぞましい事件の犯人を、パレスチナ人と考えているのは確実で、「テロリスト」と呼ぶ。パレスチナ側から犯行声明が出ているとされ恐らくその可能性は高いが、彼だけでなく、こうしたロジックを見ていると、欧米の良識派の、決して譲ることのない一線、欺瞞的部分を感じてしまう。
(重傷を負った子供の父親が、「女学校」を爆破をしようとした罪で服役中だった。)

結局これは、人間の価値の差というカテゴリーに括られてしまうのではないか、と。例えば、2年前にベイルートでインタビューをした、世界的に知られるジャーナリスト、ロバート・フィスクの言動の節々にも、決して譲らない一線が感じ取られた。ここでは詳しく書くスペースはないし、彼も巧妙に逃げられる表現はしているが、「対テロ戦争」のロジックは、第一次世界大戦の頃から一貫したものだ、という彼は、チャーチルを高く評価し、第二次世界大戦は、ドイツという「テロ国家」を攻撃した、正当な戦争である、ことを否定しない。ドイツへの評価は別にして、なぜあの戦争が起きたのか、加えて言えば、日本を含めた欧米列強の植民地支配とはなんであったのか、欧米の知識階層は、自己批判も含めた検証を、未だに行えていない、とみた方が良いのだろう。
(「世界 07年11月号」/岩波書店参照。この記事は、編集が加わっているため、フィスクの 発言を原典で確認したい場合は、収録テープの閲覧も可能)

日本時間だと一昨日になるのか、アメリカ軍の担当司令官が、「イスラエルによるイランの核施設への攻撃」の可能性について言及している。これが、政治的駆け引きのためであっとしても、アメリカだけではなく、ここでは、(周知のように)、「イランは攻撃するに値するだけのことをしている国」と、政治も、人々も公言している。
パレスチナが国家ではなかったにせよ、破壊しようとしている、のではなく、破壊されてしまったエリアの人々は、なぜ破壊した当事者を「殲滅する」と、言葉にすることさえはばかられ、もし言葉にすれば、モラルを欠いた行動のように我々には映るのか?

ガザのファタハ関係者が、
「イランが来る。シーア派が、エルサレムの解放を目指して攻めてきて、今年中に第四次世界大戦が起きる」と、皆同じように語っていたこと。
勿論、イランがイスラエル、彼らにとってはスンニ派国家やファタハ自身に攻撃を加えてくることは、ないとはいえないのかもしれない。ただ、殊更ムスリム内のことであれば、こちらは知ったことではない。見方を変えれば、エルサレムは、スンニによって選挙されている、とも
言えないこともないのだろうから。
が、こうした思想や、政治ポジションや、利権争いが、白黒論の中で増幅され、大戦争に繋がったりするとしたら、もはや抑止するすべはないのかもしれない。そうならないようにまず、程度の問題や、客観的見方を、維持しなければならないのだろうが。。。

イスラエルによるガザ侵攻のケースに、少し引き戻して終わる。
白黒論ではなく、程度の差を示したいが、どうしても込み入った印象を与えるので、敢えてこうした言い方をしよう。しかも、被害のレベルを一旦排除して。

1.イスラエルが、ガザを軍事統治している。
2.ガザのパレスチナ人が(ハマスに代表される)、英語にするとミサイルの範疇に入ってし
  まう兵器で、イスラエル側を攻撃した。
3.イスラエル軍が、ガザとの境界を越えて広範囲に渡る空爆、地上部隊の投入し、三週間
  に渡る作戦を展開した。

なぜ、1を省くのか、我々も。1以前に、語られるべき事さえ数多くあるのに。


(4/3 エルサレム

※5月初頭に、広島、熊本、福岡などに参ります。5/9には、大阪で講演を致します。
  また、お知らせしましたように、帰国当日の4/10と、11日には東京で会に参加します。
  以下、熊本についての主催者からの告知文です。
 (「戦場ジャーナリスト」とは、自らを含めて、皮肉的な意味合いで使っているのですが、
  ともかく・・・)


アムネスティーインターナショナル熊本グループ企画セミナー
  〜戦場ジャーナリスト田切拓さんのパレスチナ・ライブラリー〜

          パレスチナのこと、もっと知りたい!

アムネスティーインターナショナル熊本グループでは、2009年2月1日-ガザの出来事-、
3月22日-聖地からのメッセージ(普段のパレスチナ)-を開催しました。パレスチナこと、
ガザのことをもっと知りたいという声をたくさんいただきました。 そこで、今回は、
パレスチナ問題に10年以上取り組まれているジャーナリスト小田切拓さんにご来熊い
ただき、セミナーを開催することになりました。 

セミナーへのご案内申し上げます。

日時  5月3日(日)午後2時〜午後4時30分
    (受付開始 午後1時30分から)
場所  熊本市国際交流会館4階 第2会議室
参加費 500円(セミナーの開催経費を補うためにご負担お願いします。)
定員  30名(定員になり次第締切となります。)

田切拓さん:ジャーナリスト
政治・経済番組のデイレクターをしていた1997年に初めてパレスチナを訪れ、以後、
パレスチナ問題 を専門に報道 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%ca%f3%c6%bb して
いる。アメリカ、ヨーロッパ の中東 政策の取材を含め、国際社会のあり方やイスラ
エル ・パレスチナ双方の政治構造など、包括的な視点でパレスチナ問題を追っている。
田切拓さんのブログ http://d.hatena.ne.jp/Cafegaza/

お申し込み、問い合わせ:
アムネスティーインターナショナル熊本G
八木 浩光 (090-1083-1626、mahchan@cronos.ocn.ne.jp)

●俊輔、遠藤、ブルーハーツ
そういえば、ガザで再三、昨年のトヨタカップと、この間のサッカー日本代表のワールドカップ予選の話をされた。「Syunsuke,great.Undo good」Undo?遠藤のことだった。
帰りがけ、他の知人が熱心に言う。
ガザに関わらずだが、かんふー映画の関係で東洋人は皆中国人だと思って声を掛けてくるけど、あまりにも日本のイメージが薄すぎる、なぜ、アラビア語の冊子など作らないのか、と。
前に、これも知っているグループの話だが、ニュージーランド人NGO関係者が、色々な曲を集めたCDをくれただけで、彼自身、随分聞いたという。同じ事を考え、西岸の難民キャンプの子供にブルーハーツを聞かせたが、日本語なのに、すぐに覚えていた。イランでは、カフェで「黒澤映画」について話しかけてくる人が何人もいた。
アラビア語にできればより良いが、日本語のままでも何とかなる曲などは(ブルーハーツを聞くと、ガザを思い出すし)キャンプのカフェなどで掛けて貰えると良いなあ、と前から人にも言ってきた。
ガザの南北は40キロなので、ガザの南北でマラソンをやると面白いね、というアイデアも、他の日本人から言われ、そんなことを現地でいったらおもしろがられた。
日本主催、とかで、キャンプ対抗駅伝とか、参加グループは自由にするとか。
外国人がガザに入れなければ、秘密でイスラエル側を同時に走るとか。
キャンプの子供たちが、トトロの歌を歌っていたりしたら、面白くないですか?
(4/2 エルサレム

何処にでもある、話

エルサレムに戻る前に、10年来の知人と語らった。それぞれ、ガザのパレスチナ人らしい経験をしてきているのであるが、難民である一人が、彼の反省を振り返り始めた。概ね知っていたし、彼の転機にも何度か立ち会っていたが、時折彼の話を冗談で笑い飛ばしながら、やりきれないような、そして羨ましいと感じるような、不思議な気分になった。

今、彼は、毎日寝る前に子供たち一人一人の表情、体の変異、指先、足元までに目線をやっているという。それが父親の責任であり、難民出身の彼は、一時も安らぎながら寝られなかった子供時代を思い出しながら、今、それを自らの子供たちにしているという。
20歳前半で、彼は、急死した兄の妻を引き取らざるをえなくなり、二人の子供も引き取った。
イスラムの場合、通常名前を語る時、ファーストネームの後に父親の名前を続けるが、彼の長女は、当然その名前が彼と違うことをしっている。30代後半になり、彼もそれなりの地位になったため、なぜ、彼の名前が長女の名前と違っているか、よく尋ねられるという。毎回説明しているときりないから、と、娘は、彼のことをパパ、彼の兄、つまり本当の父親の事をお父さんと答えている、だってさ、と彼は語った。

政治的な家族でなければ、資格や、学歴が、給料や立場に直結する。そのため、若くして家族を持たなければならなかったにもかかわらず、医療関係者である彼は、人一倍の努力をして技術力を付けるだけでなく、あらゆる機会を見つけては、海外で学ぶチャンスにトライし続けた。それが得られても、<紛争>中で、家族をおいては行けないと判断し、諦めたこともあった。
そんな04年に、外国でマスターを取れる奨学生に選ばれることになった。が、なぜか彼を、
イスラエルが外に出す許可を出さない。何とか一度はカイロまで出て、その国への出発を待ったが、調整が上手く行かないと言うことで、奨学生に支給される渡航のための費用も、
カイロでの滞在費も出ない。しかも、彼は200ドルほどしか手持ちがなく、極貧状態で身動きが出来ない時にカイロで会ったこともある。その後、奨学金の支給が始まってからも、満足な答えも伝えられないまま、確か3ヶ月ほど彼はカイロにいた。
家族が心配なこと、他の書類提出を求められたことで、一度帰ったら出られないかもしれない
ガザに彼は一度戻る。そこで、受け入れ国の事務所から、「奨学金を辞退するように」と、求められるが、彼はかたくなに拒んだ。2年間と定められた留学可能期間のうち、すでに大学に行けないまま半年が過ぎた頃、やっと受け入れ国のビザが発給され、エジプトとの国境も開き、彼は海外に渡ることにする。

もう、何年も服も買っていなかった彼は、手元にあった200ドルのうち100ドルで、靴と洋服を買って家に帰って、翌日の出発の準備を始めた。妻に、「お金はあるかい?」と尋ねたが、
あるわけがない。やっと大学に行ける、と浮かれて買い物をしたことがすまなくて、彼は100ドルの半分、50ドルを置いて家を出た。
国境を越え、殆ど不可能というような手持ちでカイロまで行き、一泊知人の家に泊まり、空港まで行くと手持ちは15ドルほど。何とか飛行機に乗り、受け入れ国にたどり着くと、取り敢えずの滞在費として渡された約15万円は、そのまますぐにガザに送金し、彼は、目的の大学で先に学んでいた知人の元に厄介になることにした。

1年半後、無事に大学を卒業した彼はガザに帰ろうとするが、エジプトとの国境が閉められていたため、ヨルダンに送られる。他の留学生が、ヨルダン川西岸や、イスラエルを通ってガザに帰ることが決まったが、彼はまた、理由の説明もされないままヨルダンの首都アンマンから動けなくなる。恐らく、何か、Security上の理由があったのだろうが、彼には直接関係のないこと。社交的な彼は、ヨルダン在住のパレスチナ人や、ヨルダンの医療関係者と知り合って一見楽しそうに過ごしていたが、滞在先のホテルの近くにも、ヨルダンのSecurityがいることは、敏感に感じ取っていたようだ。
丁度、イスラエルを通じてガザに帰るための許可が出て、彼が国境に向かう前後に、私もアンマンにいて彼と会っている。彼に、ちょっとした贈り物をし、こちらのイスラエルでの携帯番号を渡したが、彼には連絡先は聞かず、彼も渡そうとはしなかった。

実は、02年から、彼とは何度も会わないようにしてきた。複雑な家族の状況のため、若かったため、彼は神経を尖らせていた。そんな時、私は、ジャーナリストとして彼の地のことを報道するようになり、ただの友達ではいられなくなったこともあり、彼が携帯番号を変えてからは、無理に探さないようにしたこともある。
これまで触れた留学の直前、たまたま別の知人が彼と同じ国の奨学生になって、彼と知り合った。そこで、変な日本人の話が出て、それが同じ人物だと言うことが解った。そんな経緯で、久々に彼に会った05年。やはり、携帯番号は聞かないようにした。
今回も、全く彼の行方は解らずにいた。恐らくガザにいるのだろうと思ったが、最終的に帰れなかった可能性もある。が、アンマンで彼の滞在していたホテルの関係者すら、彼の行方は知らないし、連絡もしてこないで酷いヤツだ、と少し怒っていた。

「なぜ、<戦争中>に連絡してこなかったんだよ!」
また、たまたま彼の連絡先が解って、2月のガザ滞在時に再会すると、一言目がこうだ。全く、連絡先も言わないくせにかなわないなあ、と思いながら、10年以上の年月を思い起こしてまぶたの奥が熱くなった。
勿論、スパイは沢山いるのであろうが、ガザにいる分には、イスラエルの入植地があった頃の頃と、人々の警戒心は多少変わっている。だから、今年になっての2回のガザ滞在時には、彼とも何度も会い、彼も、家で食事を振る舞おうと、誘ってくれた。そして昨日、今、大学で教えている彼は、授業が終わる時間よりも一時間も早く、「何処だい?」と電話をしてきた。
丁度、彼を紹介してくれた彼も知る知人の家で、ランチをご馳走になるはずが、家に行くと何も出来てなくて、その知人が、山ほどの魚を前に、「それぞれ別の一品を作ろうぜ」
料理を始めた時に、彼からの電話が入って、「醤油があるから、日本の味を食べてみろ」、と
脅して彼にそこに来るように言った。

彼も、自分のことを何度も笑いに変え、奥さんに気を使って酷く禁欲的な生活をしたという留学時代のこと、女学生も教える時に困ること、など、すけべオヤジ的なフレーズも織り交ぜて、三人の話は弾んだ。
そして、一晩明けた今日が、私のガザ最終日。イスラエル政府が発給するプレスカードの有効期限が切れるため、このカードではガザにはもう入れない。再申請すれば良いのだが、このブログを始めた頃に書いたような経緯もあり、次回は解らない。

「良く、そんな話あるよなあ」
もう一人の知人が時折、茶化したりする。それでも彼の話は止まらず、行きすぎると、笑いに代えようとする。そう、ここでは良くある話、普通の話。

家が遠いため、早めに帰らなかった彼を車で送り、車中で別れの挨拶をした時、握った手をどう離してして良いのか解らずに、二人とも随分長いこと、助手席と後部座席の間で固まっていた。今度は、いつか。


(4/1 エルサレム

気遣い


ガザへの物資搬入・搬出のための検問付近。荷物が運ばれている気配はなかった。コンクリートの壁の向こうがイスラエル

破壊されたタイル工場。建物が空爆されているだけでなく、破壊された機械類が外に運び出されていたり、銃弾で中を壊されていて、見た目はそのままでも稼働できなくなっていた。


人口50万都市、ガザ市遠景。破壊されし尽くされていないのは、見ての通り。


イスラエルによる侵攻で、多大な被害を受けたガザ南東部の村出身の若者と再会し、彼を仕事用の車で村まで送ろうとすると、固辞する。酷い風邪を引いているようだし、5分ほどしかかからないから、と言っても、にこやかな表情で去っていった。彼の去った後に、通訳を買って出てくれて同行していたもう一人のパレスチナ人がいうには、この数日パレスチナ人のミリタントをイスラエル軍が攻撃していて、けが人も出ているから、とこちらを気遣ってのことだという。

一昨日は、イスラエルとの物資輸送用の検問所付近を取材していて、破壊された建物のタイルを作る工場に行くと、オーナーが掘っ立て小屋に寝そべっていて、案内をしてくれた。イスラエルの検問の近くと言うことで、
「一緒にいると危なくないか」と気遣うと、その前にオーナーの方が、こちらを心配していたようで、言葉を遮られた。
銃声は日常的に聞こえるが、通常外国人プレスにはイスラエル軍は発砲しないと思うよ、と
言いながら、こちらの前を歩く。暫くすると、何度も銃声がして、ただ彼は全く無反応で、
「子供が検問に近づくから、追い払うために地面に撃っているんだよ」と、説明する。

ガザに入って三日目の朝には、結構大きな爆発音がした。ガザ市から5キロほど離れたところに住んでいる知人に電話し、君のうちの近くじゃあないの、と聞くと、その後に顔を合わせた時に、
「びびっていたんじゃあないの?こんなこといつものことだよ」と、気遣ったつもりが、ちゃかされてしまった。

プレスだから、外国人だから、イスラエル軍もそうはこちらを攻撃はしてこない。加えて、より危険なパレスチナ人に守られてしまう。それでも、外国人が犠牲になると、そのことばかりが取り上げられ、現地の人のことは語られることが少ないし、感じ取りにくい話が多い。
それを変えたいのだが、結局こちらが気づかないうちに、毎度、気を遣われてしまっている。だから時折、彼らが苛立って、検問を封じている戦車の前で検問を開くように交渉しろ、などと言われると、向きになって行ってしまうことがあった。そんなことでは何も変わらず、全くおろかなのは解っているのだけれど。


明日で、ガザを出る。いつ、戻れるのだろうか。


(3/31 ガザ市)

楽園


Marna House In Gaza


知人に紹介されて、02年の危機的状況以来初めて泊まったまともなホテル。これまでも、その一階にある野外カフェには良く来たが、宿泊したのは初めて。たまたま、3月に招聘したアメリカ人研究者サラ・ロイ氏が、20数年前から頻繁に滞在しているホテルで、ガザでは恐らく一番古いホテルである。
外国人も減ったのであろうのと、知人の紹介もあってか、12,3畳のベットルームにバスルーム、テーブルの置かれたバルコニー。ワイヤレスも常時使える。値段は伏せておくが、非常にReasonableである。
また、このホテルを知る知人が、代わる代わる来てはオーナーに一言告げていくので、より居心地が良い。いや、少々のわるも出来ないので、ちょっと息苦しいか。写真は、そのホテルの屋外カフェである。

正直疲れていたが、ガザに来て、回復してきている。どうしても外国人なので、ガザでの最貧層の暮らしをすることは難しい。イスラエルの侵攻によって、貧困を極めている人たちがいるのも確かであろう。
だから、今いるようなところだけを取って、ガザを語るつもりはないが、
これが完全な上流階級向けの場所でない以上、ガザの一つとして紹介しておきたいし、こうした姿が、ある側面ではガザの象徴でもあろう。難民キャンプもガザ、そして難民も来る、1年に一度くらいは、そこでたらふくおいしいご飯を食べたい、と子供たちが願うような、贅沢には映らない、でも日常的には行けないレストランや、今いるホテルのカフェのようなところにいると、安らぐ。

昨日は、知人の生活している庶民的エリアに行って、大人たちの集まる場所で、たき火で入れたアラビック・コーヒーを頂いた。振る舞ってくれた男性は、近くを歩いていた息子を、イスラエル軍のミサイル攻撃で失ったばかり。
その前には、知人の家で、にんにくとバジルで味付けした、さかな料理を振る舞われた。
その後に尋ねた、イスラエル軍によって惨殺が行われたエリアでは、前に、畑から引き抜いたばかりのレタスを貰った。
今日行ったエリアは、イスラエルの巨大入植地が近くにあって、前には農作業をすることも立ちゆかなかった畑に植えられたイチゴを、ちぎって渡されたっけ。そうそう、娘に言うとまた怒られそうだが、今日も、カフェで、いちごのフレッシュジュールを飲み、晩ご飯は、久々の贅沢で、お皿に溢れんばかりの量の、ソースで絡めた仔牛のステーキにした。

「今でも、父親と昼ご飯を食べなかった唯一の日を覚えているよ」
そう、知人から聞かされたことがある。ヨルダンの首都アンマンや、エルサレムでもそうだが、
街が、街としてのサイズを維持したままなので、自宅へ帰るのはそう遠くはない。家族が、手の届く距離で生活し、それなりのものを食べていれば良い、となれば、大金がなくてもそれなりに生きていける。
常日頃、ガザは援助で飼い頃されている、と繰り返し語っているが、その前に、ここでは、幸せの概念が違う。

こうした話をしたのは、当たり前のことを一行だけ書きたいから。
忘れてはならないのは、国際社会が支援するからこそ続く、イスラエルの軍事統治。

ガザが、「占領されている」と書けるようになったのかな、朝日新聞は。パレスチナで働くフリーランスは、原典文書を読むようになったのかな。
NGOは、大使館と一定の距離を置くようになったのかな。

ハマスを語る時、一つ重要なポイントがある。ファタハが決してやってこなかった、世代交代と
いう側面である。我々も、年長者を敬いながら、新しい何かを始められているのかな。年長者は、自らのポジションを守るために、後進の口をふさいでいないかな。
そんな自分は、こうしたことを言うに足だけの仕事を、出来ているのかな。

ほろ苦く、ガスの火にはない匂いの香るたき火で入れたコーヒーは、心を静め、物事を冷静に見させてくれる。
一度、ガザに来て欲しい。
(滞在も、あと一日半。
 ガザに入る許可は、次も出るのであろうか。なぜ、許可など貰わねばならないのだろか。)

(3/31 ガザ市)


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以下、ご案内です。

10日は、ライター・グループ主催の会で、多少参加費が高くなりますが、私の関係者だと
伝えて頂ければ会員価格になるそうです。

11日は、私主催の会です。
1月にガザの話で行った、フォト・ジャーナリストの藤原亮司氏(Japan Press)と、
週刊金曜日副編集長の平井康嗣氏とのトークで、今後、時折同じ顔ぶれで行えれば、と
考えています。また、ゲストには弁護士で、この時期にアメリカから一時帰国している
猿田佐世氏を迎える予定です。


●4月10日


◆ライターズネットワーク ビブリオサライ セミナー◆
「大手メディアが伝えないガザのリアル
――組織に縛られないジャーナリストにできることは何か?」(仮)

講師:藤原亮司(フォトジャーナリスト)・小田切拓(ジャーナリスト)


2008年12月、半年間の停戦の期限が切れると、イスラエル軍は過激派組織ハマスからの攻撃を理由に、パレスチナガザ地区への大規模な攻勢を再開した。1月の停戦までの22日間で、ガザ側の死者は1400人を上回るといわれている。

停戦後、多くの報道機関がガザ地区に入り取材を始める。だが、多くのメディアは潮が引くように短期間で取材を切り上げてしまった。そんな中、パレスチナ問題の取材経験豊富な2人の日本人ジャーナリストは、時間をかけ、ガザで起きていたことを調べていった。そこには、大手の報道機関が伝えきれないガザ地区の現実があった!

今回のセミナーでは、これまでの報道ではうかがい知れないガザ地区のリアルな実態を伝えるとともに、メディア報道の在り方を検証しつつ、組織に縛られない個人としてのジャーナリストに何ができるかを考える。


             記

ライターズ・ネットワーク ビブリオサライ セミナー
「大手メディアが伝えないガザのリアル
――組織に縛られないジャーナリストにできることは何か?」(仮)
◆講師 藤原亮司さん(フォトジャーナリスト)・小田切拓さん(ジャーナリスト)

◆日時
2009年4月10日(金)
   PM6:30 受付開始
   PM7:00 開始
   PM8:45 終了予定

◆会場
飯田橋・レインボービル 1階D会議室
東京都新宿区市谷船河原町11(家の光会館隣)
地図:http://www.ienohikariss.co.jp/bld/map.html

◆定員 45人

◆参加費用
ライターズ・ネットワーク会員 2000円 非会員3000円(※但し、講師関係者と受付時に言えば会員料金を適用)

◆参加申込方法(会員向け)
下記のアドレスまで参加申し込みのメールをお送りください。
kaliuki@train.ocn.ne.jp (六本木博之まで)


◆申込締切
4月8日(金)まで

【講師プロフィール】
藤原亮司:フォトジャーナリスト、ジャパンプレス所属。1998年よりレバノンやヨルダンなど周辺国を含めて継続的にパレスチナ問題を取材。他にアフガニスタンコソボを取材、日本では在日コリアンの記録をライフワークとして行なっている。ジャパンプレス所属。

田切拓:ジャーナリスト。政治・経済番組のデイレクターをしていた1997年に初めてパレスチナを訪れ、以後、パレスチナ問題を専門に報道している。アメリカ、ヨーロッパの中東政策の取材を含め、国際社会のあり方やイスラエルパレスチナ双方の政治構造など、包括的な視点でパレスチナ問題を追っている。



●4月11日


ガザ侵攻直後の一月、藤原亮司氏(フォト・ジャーナリスト/Japan Press),
平井康嗣氏(週刊金曜日副編集長),を迎えて、イスラエルによるガザ侵攻と、メデイアの
功罪などを中心にトークをしましたが、
今後このメンバーと、各回ゲストを加えて、
中東に関わりながら、少し広げられるテーマでの小さなトークイベントを行いたいと考えて
おります。
前回の参加者からの希望もあり、次回は4/11(土)13:00−16:00(目安)で、
村上春樹と、エルサレム賞
/国内の奇妙な反応と、論壇の変化(案)」
今回はゲストを一人。猿田佐世氏(弁護士)、今アメリカ滞在中で、
丁度一時帰国される予定です。
(猿田氏については、ウエブ検索ですぐに情報が得られます。)

場所は青山の事務所で、連絡を頂いた方のみのセミ・クローズドの形は変わりません。
椅子が10脚ほど、その他にフロアに座って頂くとしても、
最大で20人かと思います。勿論、他の場所で行うという可能性も考えられなくはない
ですが、一応、事務所で固定化したいところです。前回と同じように、先着順で席は確保させて頂くことにします。
早めに、参加のご希望があれば教えてください。
帰国は4月10日ですので、ご連絡はメールでお願い出来ると助かります。

日時    4月11日  13:00〜16:00
場所    青山 小田切の事務所。
参加費   1500円  資料代、飲み物代を含む

※参加をご希望の方は、メールでご連絡下さい。海外にいる関係で、もし3日以内に返答が
  ない場合は、お手数ですが最初にご連絡頂いた概ねの日時を明記して、再送願えると
  助かります。(未送信、未受信の可能性が考えられますので)

会場の詳細については、ご連絡頂いた方にお伝えします。ご連絡を頂いた順番に、席を確保致します。よろしくお願い致します。